「ただ悩みたいだけの人」がいる。
何か問題に直面したときに、解決策を探すわけでもなく、ただただ悩む。
おそらく、解決策を探すこと自体が面倒なのだろう。
なんだ、そんなことなら僕にだって心当たりはある。
もう考えることすら面倒なのだ。
解決策なんてものがあったとしても、それに立ち向かう気力がない。
できるものなら、解決策なんて知りたくもない。
解決策なんてものを知ってしまったら、解決に向かって頑張らなくてはいけないではないか。
その頑張る気力がないから悩むのである。
もう頑張りたくない。
だから、悩んだままでいたいのである。
それはそうと。
「悩む」と「考える」は違うらしい。
「悩む」とは“答え”を見つけるわけではなく、どうしようもないことを延延と気に揉んでいる状態。
「考える」とは“答え”に至るまでのプロセスを論理的に組み立てる行為のこと。
「悩む」ことは非生産的な行為であり、「考える」ことこそが生産的な行為であると。
堀江貴文氏は、たしかこんなことを言っていた。
「悩む」ことは物事を複雑にしていく行為で、「考える」ことは物事を単純にしていく行為だ。
とかそんな感じのことを。
ほうほう。
確かに当時は、僕もその理屈を聞いて妙に納得したのを覚えている。
それじゃ、「悩む」のではなくて、「考える」ようにしよう、と。
だが、それから僕も少し年をとって思う。
「人は誰しも悩みたいのではないか」
と。
「悩みがないのが悩みです」
なんて言う人がいて、以前は「はぁ?」なんて思っていたが、よく考えてみたらこれは実に言い得て妙である。
どんなに悩んでいなくても、その人は悩んでいるのである。
これはつまり、「悩みたい」ということだ。
多分。
「悩み」を悪者扱いしない、実に達観した考え方だ。
「悩みがないのが悩みです」
と言う人が何かに悩むようになったらどうなるのだろう?
「悩みができたから、私の悩みはなくなりました」
とでも言うのだろうか。
・・・ん?
ああ、結局、常に悩んでいるじゃないか。
次から次へと悩みはやってくる。
いや、その人自身が「悩み」を掴みにいってるのではないだろうか。
人は、悩みたい。
ただただ、悩みたい。
こうして、どうしようもないことを延延と悩み続けていたい。
そして、悩み疲れたら、また動き出せばいい。