
「私はバカだ」
そう言ってしまえる人が最強である。
自分をへりくだる言い方、「自虐」「謙遜」とでも言い換えられるだろうか。
この手法、最強だな。
と、最近思うようになってきた。
「お前はバカだ」と人から言われる前に、
「私はバカです」と先手を打っておくのだ。
こうなると相手は何も言えない。
「自虐」は最大の自己防衛である。
僕も無意識のうちによくこの手法を利用していたな、とふと気づいた。
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無知の知

そう考えると、「無知の知」というソクラテスの言葉はよくできている。
自らの無知を認めることが学問の始まりであるというものだ。
また、自分が無知であることを知っている分、そのことを知らない相手より優位であるという考え方ともとれる。
後者の解釈によれば、
「自分はバカだ」と認めている分、「自分はバカだ」と認めない人よりも優位に立っているのだとほくそ笑んでいるわけだ。
うむ、嫌らしい…
自己防衛の罠

あなたは「自虐」「謙遜」をする人に対してどういう印象を持つだろうか。
おおむね腰が低くて良い印象を持つのではないだろうか。
ところが、それは既に相手の自己防衛の罠にはまってしまっている。
「私は才能が無いです」
「私はブスです」
「私は走るのが遅いです」
こうやって自分のハードルを下げることで、人は競争からの逃避を試みるのだ。
自ら戦いの土俵から下りてしまえば、相手はもはや何も出来ない。
つまりは最大の自己防衛となる。
ただ、少し意地悪な批評家はこう指摘するだろう。
「自分をブスだと言うやつに限って、本心はブスだと思っていない」
ここまで裏を読まれては、万事休す。
まあ、世間なんてこういう探り合いにまみれたものなのだろう。
戦いの土俵は自分の中にある

で、結局何が言いたいかというと、
自己防衛でも良いじゃないか、ということ。
自虐する人は、本当は相手より優位に立っているとほくそ笑んでいる。
そう先述したが、僕の考えではもう一つの思考パターンがそこにはあると思う。
それはつまり、自虐する人がその土俵で戦うことに興味がないパターンである。
人生には様々な戦いの土俵がある。
出世競争、学校のテスト成績競争、営業成績競争、マラソンのタイム競争。
見栄の張り合い、人生の充実度の見せつけ合い、などなど。
これら全ての土俵で戦い、無敗を誇るスーパーマンを目指すのは少し無謀ではないかと、
1992年生まれ、「ゆとり世代」ど真ん中の僕は思うのである。
とは言え、僕も完全な競争否定主義者ではない。
自分のマラソンのタイムは気になるし順位も多少は気になる。
しかし、マラソンのタイムや順位が悪いからといって、人生の終わりだとは思わない。
僕のフルマラソンのベスト記録は2時間46分。
それを言うと、よく「すごく速いね」と言われる。
確かに日本のフルマラソン完走者全人口に対して、3時間を切るランナーの割合は約3%(アールビーズ社調べ)なので、2時間46分という記録は相対的には速いと言えるかもしれない。
ところが、僕の周りには2時間40分や2時間30分を切る市民ランナーがたくさんいるし、実業団のレースや国際試合に目を向けたら、2時間46分なんて“記録”はどこまでも霞んでしまう。
だから僕は人から「速いね」と言われたら大抵、
「いやいや、自分なんか全然遅いですよ。僕よりタイムの速い人はたくさんいます」
と“タイム至上主義の戦い”の土俵から下りる。
何を基準に、誰と比べるかによって評価なんていくらでも変わり得る。
つまり、こうした外部依存的な競争には終わりがないのである。
だから、いつでも戦いの土俵は自分の中にあると考えた方が良いだろう。
使い古された言葉ではあるが、「ライバルはいつも自分」なのである。
自分が選んだ土俵で戦えばよい。
必要であれば、自分でその土俵を作り出せばよい。
不毛な競争に消耗している時間と労力が勿体ない。
「自虐」とは最大の自己防衛であるとともに、不毛な外部依存の競争から身を引く手法である。
自分の外ではなく、自分の内により強固な価値基準を持つこと。
そして、不要な競争をうまい具合に避けていくこと。
それが自らの心身を消耗させない秘訣ではないだろうか。
以上、「ゆとり世代」の戯言。