
5ヶ月間で3700kmを走る日本縦断ランを終えて、僕の周りの方々からよく言われるようになった言葉がある。
「きっととても成長しただろうね」
「一回りも二回りも大きくなったはずだね」
そうお声掛けしていただくこと自体は大変有難いことなのだが、
はて、本当にそうだろうか。
僕は違和感を持った。
というのは、僕自身、「自分が成長した」という実感がないからだ。
いや、確かに少しは成長したかもしれない。
多少日本の地理には詳しくなったし、どこでも平気で野宿できるようにはなった。
だが、せいぜいこんなところである。
どこでも野宿できるからなんだ、と言いたくなる。
さて、一般的に「成長」といえば、縦方向のそれを思い浮かべる。
何かのスキルが身に付いたとか、マラソンのタイムが伸びたとか、人間的な評価が上がったとか。
世の中に“優”と“劣”が在るとして、“優への上昇”こそが、一般的には、「成長」という言葉の意味するところだ。
ところが、どうだろう。
僕は走りでの日本縦断を達成して、“優への上昇”を果たした気がしない。
僕の精神は、ある場所をぐるぐると、あるいは飛び飛びに、実に不規則な動きで迷走していた。
僕は旅の途中、多くの人々と出会い、何度も自分の観念を覆された。
世の中には自分が信じてきたものとは全く逆のものを信じる人すらいるのだ。
そうして、旅中の出会いや経験を通して自分の考え方は何度も変化した。
例えば。
大学で専攻していた商学部の講義では、ビジネスは利益を追求するものだと習った。
ところが、旅中に出会った経営者の中には「儲けなくていい」という信念をもっている人もいた。
例えば。
旅に出る前、僕は毎日風呂に入らなければ不潔だと思っていたが、今では毎日風呂に入るのは贅沢過ぎる気がして後ろめたい。
まあ、そんなところだ。
僕の考え方はあっちに傾いたりこっちに傾いたり、それまで積み上げてきたものがぶち壊されたり、新しく固まりはじめたり。
そうした変動を繰り返していた。
そういう意味で、僕は“優への上昇”すなわち「垂直的成長」をしなかったと感じるわけである。
ところが、先述した思考の破壊や創造、迷いなども広義的に「成長」と捉えたらどうだろう。
それらを「水平的成長」と呼ぶならば、
僕は「水平的成長」をしたといえるかもしれない。
いわば土台作り。
目に見えない部分での深化。
旅を通して、様々な人の考え方に触れたこと、様々な地域を見たこと、様々な環境下で過ごしたこと。
それらが、いつの日か心の拠り所くらいにはなる気がする。
