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日本縦断ラン #DAY 81 – 2015.6.21
真実は分からない
宮城県・仙台市 (福島県・南相馬市)
■福島県・南相馬市へ
昨晩、泊まった宿で誘われて急遽参加することになった南相馬でのボランティア。
マイケルの運転で、福島県・南相馬市へ向かう。
自動車道の脇には、放射線量を示す看板が確認できる。

南相馬市の鹿島にある仮設住宅に到着。
テレビでしか観たことのない風景があった。
仮設住宅は思った以上に小さい印象だった。
原発の放射能に関しては、情報が錯綜しており、どの情報を信用すれば良いのか分からない。
仮設住宅の住人たちの中には、未だに先行きが見えないことに対する不安や苛立ちを感じている人も少なくないという。

今回のボランティアの内容は、仮設住宅の集会所でお茶会を開いてみんなでワイワイ楽しもうという簡単なものだ。
マイケル達は、4年前から仮設住宅の人達に食料や物資を配給する活動を続けてきたそうだが、
被災者とより深いコミュニケーションをとることも大事だということで、今回このような取り組みを初めて企画したのである。
ボランティアと呼んで良いのか分からないほど、普通に楽しんで、お茶を飲み、お菓子をつまみ、被災者の方々と話をしていた。
僕は、「日本縦断ラン」の話をしたり、いつもやっている簡単なストレッチを教えたりした。
ボランティアの参加者には、外国人も何人かいるし、ヨガのインストラクターもいて、それぞれが自分の出来ることや、話せることを披露していた。
仮設住宅に住む人達が、こうした外からの刺激、あるいはエンタテインメントを少しでも楽しんでもらえたら、と思う。
■ボランティアを終え・・・

僕たちの活動がどれくらい役に立ったのかは分からないが、
少なくともお茶会に集まってくれた方々の多くは、楽しんでくれたようだった。
ボランティアと言っても、実際にやったことは大したことはない。
「ボランティア」と声高に言うほどのものでもないかもしれない。
むしろボランティアをした側の人間が、逆に被災者たちから元気や力をもらうといった話をよく聞くが、
これは真実のようだ。
実際に震災を経験された方の言葉は重く、きっと当事者でない僕には想像も出来ないほど大変な思いをされていることと思う。
それでも、
「震災は酷い出来事だったけど、そのおかげで良いこともあった。」
そう語る南相馬の方たちには、強さと逞しさを感じた。
もちろん、被災者のすべてが立ち直ってるわけではない。
被災地の現状は一括りにできない。
被災者の想いも然り、だ。
それは、マスコミの一元化された情報を鵜呑みにしていては分かり得ないだろう。
だからこそ、実際に被災地に足を運び、自分の目で見て、耳で聞くすることが大事だと思った。
恥ずかしながら、僕は被災地を訪れたことでようやく、震災という出来事にリアリティを感じた。
そうして被災地を訪れた人々がそれぞれの感性で感じたことを、それぞれの形で伝え、今後に繋げていくことが今の僕たちに出来ることなのだろう。
■仙台市~第二夜

仙台市に戻る。
今夜は旅中で出会った鈴木さんご夫妻と会う。
写真を撮り損ねたが、夕食をご馳走していただき、たくさん話をした。
鈴木さんとは、山形県の山中で野宿をしているときにお会いした。
夜、山中のトイレで寝袋に包まっている僕は間違いなく不審者の姿であっただろうが、
それでも鈴木さん達は僕に声をかけた。
なんでも、その時僕が本を読んでいたから気になったそうだ。
何気ない行動でも、見ている人は見ているものだ。


採れたての新潟のイチゴまで頂いてお別れ。
梅鉢に戻って、みんなで頂いた。
[81日目・走歩行距離:0km]
日本縦断ラン #DAY 82 – 2015.6.22
津波の爪痕
宮城県・仙台市 → 宮城県・東松島市
■仙台市発

梅鉢を出発。
日本一周中のチャリダーにも会えたし、また素敵な出会いに恵まれたゲストハウスだった。
行ってきます。
次の目的地は石巻市。
■塩釜~松島


海風を浴びながらひたすら北へ走っていく。
多賀城から塩釜へと進んで行く。
内陸部に比べると、道も平坦なところが多く走りやすい。
街並みは途切れなかった。

身体は軽い。
1km5分半のペースで軽快に走れている。
上手く疲労が抜けている感じがする。
その勢いで一気に20km走り、松島へ到着。



『松島や ああ松島や 松島や』
と、ただ『松島』と連呼するだけの句が残るほどの景色だ。



松島の中心街はすっかり観光地化している。
昼飯どきのおばちゃんたちの強引な客引きには少しうんざりした。
とはいえ、海のそばに建つ寺や島々を結ぶ赤橋は、やはり風情がある。
少し外れへいくと、静かな港町も見える。
ここは静かだ。

■東松島市

松島の中心街を抜け、海沿いに進んで行く。
のどかな港町や農道、山道が続く。


軽い峠を越えると、辺りの景色が殺伐としてきた。
そう、ここも津波の被害が大きかった地区である。

今年の5月末に開通したばかりの新仙石線が見える。



こちらは旧野蒜駅。
現在はコンビニになっている。
線路は途切れ、津波の被害の爪痕がはっきりと残っている。

当時の浸水の深さを示す印がある。
一階は完全に浸水してしまったようだ。
新野蒜駅はここより少し内陸側に建てられ、そこを新仙石線が通っている。


45号線に合流すると、橋の向こうに街の建物が見えてきた。
ここは、鳴瀬。

綺麗な夕焼けで空が赤く染まっていた。
被災地の荒れた景色を見てきたが、それでも空は息を呑むほど美しい。
良くも悪くも、人間は自然には敵わないのだろう。
今日は陸前小野駅のベンチで野宿する。

[82日目・走歩行距離:38km]
日本縦断ラン #DAY 83 – 2015.6.23
宮城県・東松島市 → 宮城県・石巻市
■陸前小野駅にて
昨晩は、陸前小野駅の横にあるベンチで野宿。
5時半頃、そろそろ出発しようかと準備をしていたら声をかけられる。

駅のすぐそばに住む菅原さん。


そして、ご親切に朝食を振る舞ってくれた。
朝の6時にビールという贅沢な朝。
この周辺も震災で大きな被害を受けた地区である。
写真を見せてもらいながら、震災当時の話もしてくれた。
当事者の生の声というのは、やはり重い。
本人は特に悲観的に話しているわけではないかもしれないが。
何でもかんでもネットで簡単に情報が手に入る時代だが、それらのマス情報を信用し過ぎるのはどうかと思う。
もちろん、それはそれで上手く利用すればいいのであるが、
足で稼いだ情報。
出来るだけ生に近い情報。
といった質の高い材料で、物事を語ったり、議論したりしたいものだ。
自分は遠くにいて、ネットで手に入る情報だけで物事を分かった気になるのはどうかと思う。
ちなみに、菅原さんは旅人を見かけると声をかけずにはいられないそうで、
以前も日本一周中のライダーを自宅に招いたらしい。
興味のある方は、陸前小野駅のベンチで寝てみると良い。
きっと声をかけてくれるはず。
■石巻へ

午前9時に出発。
今日は石巻市を目指す。
曇り空の下、軽快に走り始める。
気温も丁度良く走りやすい。
ただ、復興関係の大型車が巻き上げる砂塵が目に入り痛む。

8km程走って、石巻市に到着。
それほど遠くない。
予想以上に都会だった。
道の両脇に立ち並ぶ建物群と交通量の多さから街の熱気が伝わってくる。
さらに市街地の方へ進んだところで休憩をとる。

こちらは、とあるトイレの水道。
お湯が出るという。
南国の人間には物珍しい。
今夜は石巻で人と会う予定がある。
それまでの間、Wi-Fi環境のあるところでブログの更新等を進める。

その夜、お会いしたのは市原さん。
福岡を出て、現在石巻市で社会人1年目として働いている。
大学が一緒というわけでもなく、しかも勉強会で一度しか会ってないのだが、
今回声をかけてくれた。



石巻の海の幸を頂きながら、様々な話題で話した。
ちなみに、真ん中の写真は、ホヤという東北特有の海産物だ。
見た目は貝に似ているが、貝ではないらしい。
足が早いため、この付近で新鮮なものを食べるのが良いという。
クセのある食感だが、僕は好きだった。
この日は、市原さんの自宅に泊めてもらうことに。
ありがとうございます。
[83日目・走歩行距離:10km]
日本縦断ラン #DAY 84 – 2015.6.24
日本のどこへ逃げても、そこにあるのは現実のみ
宮城県・石巻市
■石巻市内散策

この日の午前中は、洗濯物などを乾かしたりしながらゆっくり過ごした。
市原さんは、朝早くから仕事へ。
洗濯を済ませ、自分もボチボチ出発する。



石巻は、大きい道路沿いこそ商業施設やお店がたくさん並んでいて都会の街並みであるが、少し脇道に入ると津波の被害の爪痕が至る所に確認できる。
■日和山



なぜか、こんなに険しい山道を上る。
途中からほとんど道ではなくなった。
どうやら登山口を間違えたようだ。
くっつき虫に盛大にくっつかれた。

辿り着いたのは、町の南に位置する日和山。
ここから太平洋を眺めることが出来、すなわち津波が流し去って行ったかつての町も一望できる。


少し見にくいが、左が現在の街並み。右が震災前の街並みである。
びっしり建てられていた建物がことごとく流されていて、同じ場所と思えない。
余所者ながらに、何とも言えない喪失感を覚えた。
太平洋はどこまでも続いているように見え、驚くほど静かだ。
それが、かえって自分の無力さを際立たせる。

しばらく、この場所で何を考えるでもなく、ただ風を浴びていた。
その後、日和山の丘を下りて、レトロな街並みを歩いてみる。



漫画の町は、商店街も駅も漫画のキャラクターたちが彩りを与えていた。
町内ラジオからBGMが丁度良い音量で流れている。
変な気分になった。
津波で多くの建物が流されても、残った人々は生き続けるのだ。
外からの人間からしたら、ここは“被災地”かもしれないが、ここにも日常はある。
きっと、どこも同じなのだろう。
どれだけ遠い場所へ旅をしても、そこにあるのは現実だ。
すると、なんだかどうでもよくなってきた。
この日は駅の裏のベンチで寝た。
先には進まなかった。
[84日目・走歩行距離:7km]
日本縦断ラン #DAY 85 – 2015.6.25
復興に進む人々の力強さ
宮城県・石巻市 → 宮城県・女川町
■石巻市発

4時半起床。
石巻から女川町を目指す。


海岸沿いにどんどん進んで行く。
道の脇には、家屋のベースだけが残っている。
かつては、ここにも家が建っていたのだろうが、今は雑草が伸び放題の状態である。
車道は相変わらず、土木関係のトラックが多い。
■女川町


女川町に入って、港町が遠くに見えてきた。
店の数が少し増えてきたが、地図によると町の中心はもう少し奥のようなので先へ進む。




ところが、店は増えるどころか、周りは復興工事の盛り土だらけだ。
町が町でなくなっている。
工事現場から巻き上がる砂塵が凄まじく、目を開けていられないほどだ。


その盛り土だらけの景色にあって、一際目立つ立派な建物が女川駅。
今春、運行を再開したばかりだ。

また、小高い丘の上に標語が見える。
『女川は流されたのではない。 新しい女川に生まれ変わるんだ。』
そんな力強いメッセージの後ろに、たくさんの工事車両が休む暇なく復興工事を進めている。
建物は多く見当たらないが、何か大きなエネルギーがここには渦巻いている。


駅に併設されている、温泉ゆぽっぽ。
広い休憩スペースがあって、ゆっくりできる。



さらに、駅の傍にあるフューチャーセンターは、
コワーキングスペースや無料フリースペースを備える。
駅周辺にはこれからどんどん店も増えていくらしく、数か月後が楽しみである。
■女川での出会い
フューチャーセンターで作業や読書をしながら時間を過ごす。
しかし、こちらは夜9時までの営業。
駅前の広場で寝ようとしていたところ、声をかけられる。

「家に泊まっていいよ」
と声をかけてくれたのは、地元の青年・山田さん。
仮設の商店街に連れて行ってもらい、ビールを飲む。
なるほど、店はほとんどここに移されたようだ。


地元の人達とも交って飲み、ワイワイやっていた。
やはりこの町のエネルギーは凄い。
地元の人が言うには、三連休の後に盛り土の高さが大きく変わっているそうだ。
復興のスピードが速い。
[85日目・走歩行距離:16km]
日本縦断ラン #DAY 86 – 2015.6.26
人生で初めて、トンネルで寝た。
宮城県・女川町 → 宮城県・北上
■女川にて
昨晩は、山田さん宅に泊めてもらい、ぐっすり休んだ。
翌朝、朝食も頂く。
何から何まで本当に有り難い。


なんと、山田さん。
歳は僕とほとんど変わらないが、その若さで既に自分のお店を持っている。
駅の奥にある仮設住宅広場で洋食屋を営業している。

昼食に、ハンバーグとオムライスを頂く。
玉子の焼き加減が絶妙である。
酸味のあるトマトソースも美味だった。




こちらの仮設住宅は、元々野球グラウンドや運動公園であったところに建てられている。
さらに、一つ一つの建物がしっかりしていて、おしゃれだなと思ったら、
世界的な建築家・坂茂氏による設計なのだとか。
■女川発



昼、女川を発つ。
次の目的地は、南三陸町。
地図上は海岸沿いなのだが、走るのはアップダウンの激しい山道である。
■再び石巻市


再び、石巻市に入る。
市町村合併によって、女川町を囲むようにして石巻市があるのだ。


石巻市は北上。
北上川を渡った後は、しばらく海岸沿いの道を走っていく。
風が出てきて、海が少し波立っている。
汗が海風に冷やされ、寒気を感じる。


道の傍には、建物の跡が見える。
未だに撤去されて
■過酷な野宿
南三陸町を目指していたが、予想以上に道がクネクネしていて距離がある。
女川からだと60km程か。
日も沈んできた。
この日は、どこかで休むことにする。
・・・が、しかし。
寝るのに良さそうなところがない。
ようやく見つけたガソリンスタンドの屋根の下で寝てみたが、
今度は、雨が降ってきた。
最初は無視していたが、次第に笑えない程の激しい雨に変わる。
不幸中の幸いというべきか、近くにトンネルがある。

トンネルで野宿するのは初めてだった。
とてもゆっくり眠れたものではない。
トンネルの中は、風の通り道になっていて寒いのだ。
雨でぬれた身体に海風が吹き付ける。
が、外は大雨である。しかも暗闇である。
寒さに震え、まともに眠ることも出来ず、なんだか切なくなった。
だが、トンネルで夜を明かした僕は一皮むけた気がする。
そして、深夜あのトンネルを通ったドライバーの何人かは
トンネルで横たわっている僕を見て幽霊と思ったに違いない。
[86日目・走歩行距離:35km]
日本縦断ラン #DAY 87 – 2015.6.27
早朝から4~5時間、雨に打たれて走り続ける。
宮城県・北上 → 宮城県・南三陸町
■北上発
大雨の中、トンネルで夜明けを待つ。
寒くて、まともに眠れたものではない。
半睡眠状態である。

3時半頃、ようやく山の輪郭が見えだした。
そして、だいぶ明るくなってきた4時半に出発。
とにかく、早くこの場から離れたかった。


ほぼ無睡眠の状態で、昨日の夜からまともな飯も食べずに雨の中を走る。
少し切なくなってくる。
だが、走りは軽快。
1km5分台のペースで、起伏のある道をしっかり走れている。



海を眺めながら走っているうちに、南三陸町に入る。



津波の被害の爪痕が各地に確認できる。
話には聞いていたが、やはりその被害は甚大だ。
道路も決壊しているところがあり、注意して走らなければならない。

約60kmぶりのコンビニを発見。
コンビニも仮設である。
雨はその激しさを増してきた。
足元がぬかるんでいて滑りやすい。
工事の土が流れ出しているところも多いのだ。

やばいコーヒー屋。
自虐マーケティングといったところか。
気になったが、朝早かったのでまだ開いておらずスルー。



それから、起伏のある道を越え、
ついに南三陸の港町に下りてくる。
女川町と同様、周りは盛り土だらけ、工事車両だらけである。
震災前のこの町の様子が想像できない。

雨がどんどん強くなってくる中、休憩できそうな場所を探す。
もはや、まともに前を向いて走れない程の荒天だ。
かれこれ、早朝から4~5時間雨に打たれている。
冷えた身体に風が吹きつけ、かなり過酷な状態になってきた。
近くのコインランドリーに逃げ込む。
服もバックパックもびしょ濡れなので、
ここで一通り洗濯を済ませることにする。
■南三陸石けん工房
洗濯を済ませた後、こちらへお邪魔する。


南三陸石けん工房さん。
このお洒落なキューブは全て石けんである。
可愛らしい見た目で、まるでケーキのようだ。

この石けん工房は、福岡出身の厨さんが震災後、南三陸に移り住んで新しく興した事業だ。
地域に雇用を生み、継続的な貢献をしたいとの思いがある。
他にも被災地の外と内を繋ぎ、コーディネートする仕事もしている厨さん。
ビジネスとは何か、という話などもして勉強になった。
まだまだ自分の考えは甘いと痛感する。
この日は厨さんの家に泊めてもらうことに。
助かります。
ありがとうございます。
[87日目・走歩行距離:26km]
日本縦断ラン #DAY 88 – 2015.6.28
そこに街があったと気付かない
宮城県・南三陸町 → 宮城県・気仙沼市
■南三陸町散策
午前中は、石けん工房の引っ越し作業を少し手伝った。
昨日と比べると、雨はだいぶ弱まった。
作業が一段落ついた後、厨さんが被災地を案内してくれた。


この地区で最も津波の浸水地点が高かったところである。
その高さは30m近くあったそうだ。
丘の上にある中学校のグラウンドが当時の避難場所として指定されていたのだが、
4年前の津波はその丘をも飲み込んだ。
当時この場所に避難してきた人は、ここなら安全だと思って足下の町を眺めていたことだろう。
それが、この丘の上に建つ中学校の1階部分まで浸水したのである。

眼下の光景はすべて津波が飲み込んだ。
この辺りには150軒ほどの家屋があったと言うが、現在その面影は見られなかった。
震災後、山にはバスが突き刺さっていたという。
実はこの地区を昨日僕は走って通っていた。
しかし、まさかここに町があったとは思わなかった。
ただの海沿いの田舎道だと思って走っていたのだ。
説明されなければ、そこに町があったと気付かないほどなのである。


時計は震災が発生した時刻で止まっている。
信じられないが、この地点まで津波が来たという事実を、折れた電柱が物語っていた。

テレビでもよく映される防災庁舎の跡。
「防災対策庁舎」という文字が寂しく残っている。
■南三陸町発
厨さんと別れ、南三陸町を発つ。
たくさん良くしてもらった。
ありがとうございます。




南三陸から、海沿いに上っていき、気仙沼を目指す。
その道中にも津波の爪痕が度々目に入ってくる。
決壊した線路や家がところどころにある。
今自分が走れていることがどれだけ恵まれたことか、少し実感が強くなってきた。
■気仙沼市


気仙沼市の中心街より少し南の階上(はしかみ)というところで脚を止める。
今日の宿はここにある。

気仙沼ゲストハウス“架け橋”。
こちらも福岡出身の田中くんが運営をしている。
田中くんは僕と同世代の学生である。
ゲストハウス運営の他にも、被災地ボランティア派遣や地域振興事業など、気仙沼で様々な活動を行っている。
とてもしっかりしていて、尊敬する同世代だ。


夜は、気仙沼の海の幸をみんなで頂きながら、遅くまで語り合った。
この辺では、ご近所さんから鰹をまるごと一匹もらうこともざらだという。
流石、気仙沼だ。
この晩もご近所さんからもらった鰹を美味しくいただいた。
東北にも居場所が次々と増えていって感慨深い。
[88日目・走歩行距離:34km]
日本縦断ラン #DAY 89 – 2015.6.29
日本人離れした見た目になってきた。
宮城県・気仙沼市
■気仙沼市街へ


昨晩の宿・架け橋を出発して、気仙沼市街地へ向かう。
ここ階上から8km程進んだ先にある。
震災後、気仙沼には多くの若者がボランティアでやってきて今でも精力的に活動している若者が多いと聞く。

街に入った。
港町らしい開放的な雰囲気がある。
写真の場所は、海岸からは少し離れているので、津波被害の形跡はほとんど見られなかった。
気仙沼市の人口は約7万人。
決して見た目に大きい街ではないが、人口はそこそこあり活気がある。

ある人を訪ねて街を散策中、早速地元の人に声をかけられる。
昼前のカフェで数人集まって話していたところに、当たり前のように僕を招き入れてくれる。
気仙沼を通る旅人も多いのだろう。
その扱いに慣れているといった感じだ。
変に僕を特別扱いすることなく、どこまでも自然なのである。

その後、女川で出会った人が紹介してくれた人のお店を訪ねる。
コヤマ菓子店の小山さんという方だが、今はご不在のようである。
この時対応してくれた店員さんは、
僕があまりにも日に焼けているのでインドネシア人の船員さんと思ったらしい。
いよいよ日本人離れした見た目になってきたようだ。


無事に小山さんと合流。
今度は、小山さんが気仙沼の面白い人たちを紹介してくれた。
三陸地方は人の繋がりが強い。
出会いと紹介が次々と連鎖していく。
いただいたもなかくっきーは食感が独特でお勧めだ。
美味しく頂いた。



湾の方へ歩く。
空の青さは澄み渡っていて、穏やかな海と重なっている。
立派な船が寄港していた。
水面がキラキラと輝き、船の壁に美しい波の模様を映し出している。
近くには、折れ曲がった看板や被災した建物の跡が見える。
今いる美しいこの場所もあの津波が襲ったのだ。
■気仙沼の夜


夜の気仙沼も熱かった。
小山さんが紹介してくれた杉浦さんをはじめ、面白い方々と次々と繋がった。
急にお邪魔した小原木さんのお宅でBBQ。
それから、気仙沼の居酒屋・おだづまっこ。
そして、プレジャー。
皆、当たり前のように僕を輪に迎えてくれる。
とてもオープンな雰囲気だ。
夜の気仙沼を巡り歩き、解散したのは深夜2時半。
そして、今夜は小原木さんのお宅に泊めてもらうことに。
訳が分からないくらい、あらゆることが高速回転していった一日だった。
「今を生きる」
とは、こういうことなのだろうか。
今を生きようと語る人は多いが、実際にそれを実行している人は少ない。
もっと単純に生きようと思った。
[89日目・走歩行距離:12km]
日本縦断ラン #DAY 90 – 2015.6.30
誘われるがままに、生まれる繋がり
宮城県・気仙沼市 → 宮城県・気仙沼市唐桑
■安波山(あんばざん)
昨晩は、小原木さんのところにお世話になった。
突然の話にも関わらず、温かく迎えてくれて本当に有難い。
この日の午前中は、気仙沼の街並みを一望できる安波山(あんばざん)を案内してもらった。


こうして見ると、確かに津波の被害は大きかったようだが、同時に人間の営みの力強さもまた感じる。
■気仙沼発

昼前、お世話になった小原木家を発つ。
お世話になりました。
また遊びに来ます。
今日は、気仙沼の東に位置する唐桑半島を目指す。
唐桑にも面白い人達がたくさんいるそうだ。

気仙沼から唐桑半島へは近道があるのだが、かなり起伏が激しい。
動きは悪くないが、果てしなく続くアップダウンに流石に脚が消耗されていく。

カモシカを発見。
用心深くこちらを見ているが、特に逃げ出す様子もない。
真横を通るとさすがに森の中へ消えていった。
手つかずの自然が残っているという感じで良い。
襲われなかったから言えることだが。



再び海が見えてきた。
唐桑に到着である。
距離にすると13kmと、それほど長くはないが起伏の激しい山道だったので疲弊した。
■つなかん、からくわ丸

気仙沼の小山さんに紹介されたのは、つなかんという宿。
元々は個人の住宅であったが、津波で大部分が浸水。
震災後、復興ボランティアで唐桑にやってきた人達が寝泊まりしていた。
それがきっかけで、今は民宿を営んでいる。
この立派な建物は唐桑御殿といって、この土地特有の建築様式である。
元が一世帯の住宅だったとは思えないほどの広さだ。

その晩、つなかんのシェフ・今井さんに誘われてお好み焼き会へ。
なんだがよく分らなかったが、僕は誘われるがままに行った。
この「からくわ丸」という団体は、
唐桑を盛り上げたいという若者たちの集まりである。
生粋の唐桑人もいれば、外部から来た若者も多い。
驚いたのは、外部から来た若者が移住して職に就いているということだった。
この旅でいろんな地方に訪れたが、これだけ小さな町にこんなに多くの若者が移住するのは珍しい。
元々、その多くはボランティアで来ていたそうだが、
震災後も継続的に唐桑を盛り上げていきたいという想いから移住にまで繋がったという。
やはり若者が多い地域は小さくても活気がある。
そして、地元で採れたキャベツがたくさん入ったお好み焼きを頂きながら、
またいろんな人と繋がることが出来た。
いろんな生き方があって良い。
[90日目・走歩行距離:15km]